形而上学な日々

シンプルなことをこむずかしく考えます。

「わたし」という謎

「私」という代名詞によって代名されているところのそれ、それをこそ問おうとすることが「私とは何か」という問いの正しい形なのである。
いや「私とは何か」ではない「何が私であるか」である。(池田晶子)


「私」の謎については、ウィトゲンシュタインもハイデガーもその知性を総動員して考え抜いたテーマであった。そしてウィトゲンシュタインは「言葉の限界が世界の限界である」という認識に至って、「私」は言語によっては捕捉しえないものとして最終的には沈黙してしまった。
一方ハイデガーは、「現存在」なる述語を用いて独自の理説を展開したが、池田氏は「魂の私」という表現を使って、この語りえないものを語ろうとした。私見だがこの「魂」という言葉のニュアンスはユングのそれに近いものがある。