形而上学な日々

シンプルなことをこむずかしく考えます。

なぜ人を殺してはいけないのか?

「なんで人を殺しちゃいけないの?」と無邪気に尋ねてくる子供がときどきいる。


そしてたいていの場合、問われた側の大人は狼狽したり、あたふたしながらその場しのぎの対応でごまかそうとする。


メディアがこの種の議論を扱う場合、100%道徳主義がベースになる。
教育評論家や社会学者が口をそろえて言うのは、「もっと子供たちに命の尊さの教育を!」というスローガンだ。要するにこのような不健全な疑問は、発せられる前に封じなければならないということである。


社会秩序の維持のためにはルールは是が非でも必要である。いかに根拠が薄弱で理路が整然としていなくとも、人と人とが社会契約を結ぶ上で拠り所となる規範は整備しておかなければならない。


人を殺してはいけないという規範が存在する理由が、まさに人を殺してはいけない理由なのである。


では、例えば自分の子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と問われたらどう応じるか?
私であれば、養老孟司氏がどこかに書いていたように、「ハエ一匹作れない人間が、人間を殺していいはずがないだろう。」ととりあえずは答えておくだろうと思う。

死が無なら死は存在しないはずではないのか。
なぜなら無は存在しないからである。(池田晶子)


死について語るとき、池田氏は必ず上のような論法で死の不可能性、死を恐れることのナンセンスを説く。「死など恐れず、腹をくくって善く生きよ!」これがおそらく池田晶子の人生哲学なのだ。


死を恐れず、生に執着しない自身の心理について、「私にはいのち根性がない」という言い回しで語っていた池田氏であったが、次のような言葉も遺している。


生きながら死の向こうの存在と宇宙について思索できるなんて面白さ、さらに深く、さらに奥へ究めてみるのも悪くない。それで私は長生きするのも悪くないかなと思い始めたのである。つまり長生きすることで私はもっと「考えたい」。


こう語った彼女にとって、46年という生涯は果たして長かったか、短かったか・・・
いずれにせよ、彼女にとって死はないのであるから、きっと今も魂となって哲学し続けているに違いない。


「わたし」という謎

「私」という代名詞によって代名されているところのそれ、それをこそ問おうとすることが「私とは何か」という問いの正しい形なのである。
いや「私とは何か」ではない「何が私であるか」である。(池田晶子)


「私」の謎については、ウィトゲンシュタインもハイデガーもその知性を総動員して考え抜いたテーマであった。そしてウィトゲンシュタインは「言葉の限界が世界の限界である」という認識に至って、「私」は言語によっては捕捉しえないものとして最終的には沈黙してしまった。
一方ハイデガーは、「現存在」なる述語を用いて独自の理説を展開したが、池田氏は「魂の私」という表現を使って、この語りえないものを語ろうとした。私見だがこの「魂」という言葉のニュアンスはユングのそれに近いものがある。